さよなら
2012年01月17日
俺は親父の三番目の子供として生まれました。
今から30年前、俺が保育園の年中だったか、年長だったかに母親が親父と子供三人を残し家を出ていった。
長男中学一年生、次男小学四年生、三男保育園年中。
以来、俺ら兄弟は親父に育てて貰いました。
男手一つで。
大変だったろうね。
三人ともたいして勉強も出来ないし、決していい子ばかりじゃなかった。
迷惑も心配もずいぶん掛けてきた。
それでもグレずに真っ直ぐに育ってきたのは親父のおかげです。
親父、さすがです。
俺がサークルを始めて、山登りにハマッてたある日、突然親父が一緒に登りたいって言ってサークルに連れて行きました。
あの時、みんなが温かく迎えてくれました。
親父は昔気質の仕事人間で、親父から仕事を取り上げたら何も残らないんじゃないか?っていうぐらいの人だったんです。
また趣味らしい趣味なんかもなにもなくて、仕事をセミリタイアしていたあの頃は、何をするでもなく毎日家でTVを見て過ごすだけの生活だったと思います。
そんな中で山登りに出会い、夢中になり、そしてそれが生き甲斐になって。
でもさ、考えてみるとすごいよね。
あの歳で息子たちと同年代の中に一人で飛び込んできてみんなとコミュニケーションを取って山登りに来てたんだから。
ある時なんかは俺が行けないのに親父は俺抜きで仲間たちと山登り行っちゃうんだから(笑)
でもそれはね、ホントに周りの仲間も素晴らしかったんだよね。
みんな親父のことを「お父さん、お父さん」て呼んでくれて、温かく迎えてくれて本当に本当にありがとう。
親父はすごく喜んでたよ。すごく輝いてたよね。
親父がさ、俺に「いい仲間だ」「大切にしろ」って言ってくれたんだ。
嬉しかった。
それから俺の登山熱が覚めても今度は次兄が山登りを始めて、そっちの仲間たちと盛んに山に行ってた。
しばらくして今回の件とは別で体を壊し、手術をして療養してました。
また山に登ることを目指してリハビリしてね。
でもね、なかなかうまく体が動かなくて次第に家に籠りがちになって塞ぎこむようになって。
そしてあるときから精神的な病が出てきちゃってね。
病院に入り良くなるように努力はしてたんだけど…。
全然軽い方のだけど痴呆も出てきちゃってね。
そんな頃に俺、離婚しちゃってさ。
もっと悪くさせちゃったのかな。
少なくてもすごい心配を掛けたよね。
ごめんな親父。
そんな中でも悪い知らせばっかりじゃなくていい知らせもあってさ。
次兄が結婚して、お嫁さんのお腹には子供がいてね。
姉さん、一人でも親父のいる病院に行ってくれて着替えだったり足りないもの持っていってくれたりしてさ。
アイツには勿体ないくらいの奥さんです。
去年の九月、次兄と二人で行った富士山。
結局俺の体調不良で頂上まで行けず引き返してきちゃったけど、その時に次兄が富士山や、登ってる時の俺の写真なんかを撮ってくれてて、後日親父に見せに行ったんだって。
そしたらすごくいい顔したみたい。
行きたかったんだろうね。
そして暮れのブログにも書いたけど二〜三ヶ月前、肺炎になっちゃってさ、運悪く脳梗塞も併発して右脳が駄目になり、左半身不随。
相澤の緊急に入って一命を取り止めて。
いくらか容態が安定したってことで城西に転院して。
そんな頃に次兄夫婦が、産まれた【夕陽】を親父に見せに行った時。
もう親父はほとんど体が動かない状態だったんだけど、目は動いたんだよね。
で【夕陽】を連れてった時、親父がじーっと【夕陽】見てたんだって。
どう思ってたんだろ?
きっと嬉しかったんだろうな。
【夕陽】もおじいちゃんに会えて良かった。
・・・その後、一時は回復の兆しもあったんだけど相澤から転院した城西で、苦しんで苦しんで、必死に生きようと戦っていましたが体力が落ちていたがため肺炎が治りきらず今回の結果になってしまいました。
ちょうど休みの日で、実家の次兄から親父の容態が良くないって電話来て、俺すぐには行かなかったんだよね。
親父なら大丈夫だって思ってたからさ。
それでも、と思って病院に向かってる途中電話来て「俺も間に合わなかったけど親父が亡くなった」って。
その電話から20分くらいして病院着いて親父の病室行ったらさ次兄夫婦がいてね。
あれ、何て言うんだろ?
血圧とかなんかがわかるモニターみたいのがあって下の方から紙が出てきてるやつ。
それ見ると18時半頃まで僅かながら線が上下してるんだけどそれ以降はツーッて横線になってた。
71歳でした。
姉さんが「まだお父さん温かいよ」って。
触ってみた。
温かかった。
頑張ったね、親父。
前日にも親父に会いに来ていてね、いつもこれが親父に会える最後の日と思っていたからさ、覚悟が出来ていたんだ。
悔いが残ってない訳じゃないけど、ホント心から親父に対して『お疲れ様。これで楽になれたね』って思ったんだよ。
それから先生にどんな経緯だったかを説明していただいて、俺が到着したってことで改めてそこで死亡確認ていうの?それをやってくれて19時16分死去ってなってね。
闘病一年半。
親父、家に帰りたがってたんだよね。
病院の方に体を綺麗にしていただいて、足袋履かせてもらって、仏衣みたいなの着せてもらってさ。
俺の車、後部シート全部倒して親父乗せて。
あぁ。そういえばその日昼間晴れててね、俺が病院に着いた頃も良い天気だったけど、親父運び出してる頃から雪が深々と降ってたな。
親父を乗せて車を走り出すときに親父に言ったんだ。
「さぁ親父、これで家に帰れるよ、家に帰ろう。」って。
実家に向かう車の中、俺と親父の二人。
なんかいろいろ思い出したな。
でもこれが俺と親父、二人での最後のドライブ。
悲しんでばかりいられないなって思った。
家に帰ってきたら親父のお兄さん、俺たちにとっては叔父さんが待ってくれててさ。「冷たくなって帰ってきちゃったな…」って。
実家はさ、次兄の代になってリフォームしてね、すごい綺麗になってさ。
車庫から直接和室に入れること出来るんだけど、叔父さんが「せっかくだから玄関から入れてあげよう」って言ってくれてね。
俺と次兄夫婦、叔父さんの四人で親父を抱えてさ玄関から和室に入れてね、みんなで「親父、お帰り。やっと帰って来れたね」って。
それから関係各位に連絡して段取りしたりして。
その日から今日までの四日間はなんだかよくわかんないうちに過ぎていったな。
全部手探り。
業者(葬儀屋)を入れないホントの家族葬。
他から見たらもしかしたらデタラメなんて言われるようなやり方だったかもしれないけど、俺たちは胸張っていい見送りが出来たって言えるよ。
今日、火葬場で釜に入れる前の最後の別れ。
あの時は泣きそうだった。
そしてお骨になった親父。
長い闘病生活で骨もスカスカなのかな?なんて思ってたけど、なんのなんの、びっくりするくらい残っててさ。
火葬場の人も驚いてた。
それから骨壺に集骨して家に帰って来てね。
お昼頃から葬儀告別式をして。
一通り終わって参列してくださった方たちを見送って。
たいして何もやっていなかったのに、どういうわけが最後身内だけでお茶飲んでるときになんとなく疲れたような・・・、ね。
ま、喪主は大変だったろうね。
ホントにお疲れ様。
親父の形見分け、俺はリュックを貰ってきました。
俺のイメージだと小っちゃいリュックの予定だったのにいざ見てみたら思ったよりでかくてさ、こりゃこれ貰ったら山行かなきゃいけないじゃん、て感じ(笑)
なぁ親父、暖かくなったらどっか登り行こうか?
サークルの仲間たち誘って賑やかにさ。
親父の追悼登山なんつって。
喜んでくれるかい?
今回、親父のことでお世話になった高橋夫妻やなっかんを始め、仲間の皆様、お通夜や葬儀告別式、御焼香に来てくださった皆様、その場には来れなかったけど思いを届けてくださった皆様、誰よりも早く労りのメールをくれたぷうちゃん、生前、山などでお世話になった皆様、親父とは面識がない方たちも、あなたたちは俺にとって大事なものであり親父が言ってた「仲間を大切にしろ」に通ずる存在なのです。
いつもありがとう。
すべての仲間の皆様に感謝致します。
もし機会があれば親父に会いに来てあげてください。
親父、きっと喜んでくれると思います。
本当にありがとう。
今から30年前、俺が保育園の年中だったか、年長だったかに母親が親父と子供三人を残し家を出ていった。
長男中学一年生、次男小学四年生、三男保育園年中。
以来、俺ら兄弟は親父に育てて貰いました。
男手一つで。
大変だったろうね。
三人ともたいして勉強も出来ないし、決していい子ばかりじゃなかった。
迷惑も心配もずいぶん掛けてきた。
それでもグレずに真っ直ぐに育ってきたのは親父のおかげです。
親父、さすがです。
俺がサークルを始めて、山登りにハマッてたある日、突然親父が一緒に登りたいって言ってサークルに連れて行きました。
あの時、みんなが温かく迎えてくれました。
親父は昔気質の仕事人間で、親父から仕事を取り上げたら何も残らないんじゃないか?っていうぐらいの人だったんです。
また趣味らしい趣味なんかもなにもなくて、仕事をセミリタイアしていたあの頃は、何をするでもなく毎日家でTVを見て過ごすだけの生活だったと思います。
そんな中で山登りに出会い、夢中になり、そしてそれが生き甲斐になって。
でもさ、考えてみるとすごいよね。
あの歳で息子たちと同年代の中に一人で飛び込んできてみんなとコミュニケーションを取って山登りに来てたんだから。
ある時なんかは俺が行けないのに親父は俺抜きで仲間たちと山登り行っちゃうんだから(笑)
でもそれはね、ホントに周りの仲間も素晴らしかったんだよね。
みんな親父のことを「お父さん、お父さん」て呼んでくれて、温かく迎えてくれて本当に本当にありがとう。
親父はすごく喜んでたよ。すごく輝いてたよね。
親父がさ、俺に「いい仲間だ」「大切にしろ」って言ってくれたんだ。
嬉しかった。
それから俺の登山熱が覚めても今度は次兄が山登りを始めて、そっちの仲間たちと盛んに山に行ってた。
しばらくして今回の件とは別で体を壊し、手術をして療養してました。
また山に登ることを目指してリハビリしてね。
でもね、なかなかうまく体が動かなくて次第に家に籠りがちになって塞ぎこむようになって。
そしてあるときから精神的な病が出てきちゃってね。
病院に入り良くなるように努力はしてたんだけど…。
全然軽い方のだけど痴呆も出てきちゃってね。
そんな頃に俺、離婚しちゃってさ。
もっと悪くさせちゃったのかな。
少なくてもすごい心配を掛けたよね。
ごめんな親父。
そんな中でも悪い知らせばっかりじゃなくていい知らせもあってさ。
次兄が結婚して、お嫁さんのお腹には子供がいてね。
姉さん、一人でも親父のいる病院に行ってくれて着替えだったり足りないもの持っていってくれたりしてさ。
アイツには勿体ないくらいの奥さんです。
去年の九月、次兄と二人で行った富士山。
結局俺の体調不良で頂上まで行けず引き返してきちゃったけど、その時に次兄が富士山や、登ってる時の俺の写真なんかを撮ってくれてて、後日親父に見せに行ったんだって。
そしたらすごくいい顔したみたい。
行きたかったんだろうね。
そして暮れのブログにも書いたけど二〜三ヶ月前、肺炎になっちゃってさ、運悪く脳梗塞も併発して右脳が駄目になり、左半身不随。
相澤の緊急に入って一命を取り止めて。
いくらか容態が安定したってことで城西に転院して。
そんな頃に次兄夫婦が、産まれた【夕陽】を親父に見せに行った時。
もう親父はほとんど体が動かない状態だったんだけど、目は動いたんだよね。
で【夕陽】を連れてった時、親父がじーっと【夕陽】見てたんだって。
どう思ってたんだろ?
きっと嬉しかったんだろうな。
【夕陽】もおじいちゃんに会えて良かった。
・・・その後、一時は回復の兆しもあったんだけど相澤から転院した城西で、苦しんで苦しんで、必死に生きようと戦っていましたが体力が落ちていたがため肺炎が治りきらず今回の結果になってしまいました。
ちょうど休みの日で、実家の次兄から親父の容態が良くないって電話来て、俺すぐには行かなかったんだよね。
親父なら大丈夫だって思ってたからさ。
それでも、と思って病院に向かってる途中電話来て「俺も間に合わなかったけど親父が亡くなった」って。
その電話から20分くらいして病院着いて親父の病室行ったらさ次兄夫婦がいてね。
あれ、何て言うんだろ?
血圧とかなんかがわかるモニターみたいのがあって下の方から紙が出てきてるやつ。
それ見ると18時半頃まで僅かながら線が上下してるんだけどそれ以降はツーッて横線になってた。
71歳でした。
姉さんが「まだお父さん温かいよ」って。
触ってみた。
温かかった。
頑張ったね、親父。
前日にも親父に会いに来ていてね、いつもこれが親父に会える最後の日と思っていたからさ、覚悟が出来ていたんだ。
悔いが残ってない訳じゃないけど、ホント心から親父に対して『お疲れ様。これで楽になれたね』って思ったんだよ。
それから先生にどんな経緯だったかを説明していただいて、俺が到着したってことで改めてそこで死亡確認ていうの?それをやってくれて19時16分死去ってなってね。
闘病一年半。
親父、家に帰りたがってたんだよね。
病院の方に体を綺麗にしていただいて、足袋履かせてもらって、仏衣みたいなの着せてもらってさ。
俺の車、後部シート全部倒して親父乗せて。
あぁ。そういえばその日昼間晴れててね、俺が病院に着いた頃も良い天気だったけど、親父運び出してる頃から雪が深々と降ってたな。
親父を乗せて車を走り出すときに親父に言ったんだ。
「さぁ親父、これで家に帰れるよ、家に帰ろう。」って。
実家に向かう車の中、俺と親父の二人。
なんかいろいろ思い出したな。
でもこれが俺と親父、二人での最後のドライブ。
悲しんでばかりいられないなって思った。
家に帰ってきたら親父のお兄さん、俺たちにとっては叔父さんが待ってくれててさ。「冷たくなって帰ってきちゃったな…」って。
実家はさ、次兄の代になってリフォームしてね、すごい綺麗になってさ。
車庫から直接和室に入れること出来るんだけど、叔父さんが「せっかくだから玄関から入れてあげよう」って言ってくれてね。
俺と次兄夫婦、叔父さんの四人で親父を抱えてさ玄関から和室に入れてね、みんなで「親父、お帰り。やっと帰って来れたね」って。
それから関係各位に連絡して段取りしたりして。
その日から今日までの四日間はなんだかよくわかんないうちに過ぎていったな。
全部手探り。
業者(葬儀屋)を入れないホントの家族葬。
他から見たらもしかしたらデタラメなんて言われるようなやり方だったかもしれないけど、俺たちは胸張っていい見送りが出来たって言えるよ。
今日、火葬場で釜に入れる前の最後の別れ。
あの時は泣きそうだった。
そしてお骨になった親父。
長い闘病生活で骨もスカスカなのかな?なんて思ってたけど、なんのなんの、びっくりするくらい残っててさ。
火葬場の人も驚いてた。
それから骨壺に集骨して家に帰って来てね。
お昼頃から葬儀告別式をして。
一通り終わって参列してくださった方たちを見送って。
たいして何もやっていなかったのに、どういうわけが最後身内だけでお茶飲んでるときになんとなく疲れたような・・・、ね。
ま、喪主は大変だったろうね。
ホントにお疲れ様。
親父の形見分け、俺はリュックを貰ってきました。
俺のイメージだと小っちゃいリュックの予定だったのにいざ見てみたら思ったよりでかくてさ、こりゃこれ貰ったら山行かなきゃいけないじゃん、て感じ(笑)
なぁ親父、暖かくなったらどっか登り行こうか?
サークルの仲間たち誘って賑やかにさ。
親父の追悼登山なんつって。
喜んでくれるかい?
今回、親父のことでお世話になった高橋夫妻やなっかんを始め、仲間の皆様、お通夜や葬儀告別式、御焼香に来てくださった皆様、その場には来れなかったけど思いを届けてくださった皆様、誰よりも早く労りのメールをくれたぷうちゃん、生前、山などでお世話になった皆様、親父とは面識がない方たちも、あなたたちは俺にとって大事なものであり親父が言ってた「仲間を大切にしろ」に通ずる存在なのです。
いつもありがとう。
すべての仲間の皆様に感謝致します。
もし機会があれば親父に会いに来てあげてください。
親父、きっと喜んでくれると思います。
本当にありがとう。
Posted by ホソカワ at
21:37
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